殺人鬼は闇に消え
015
戻る――いいわ、アナスイ……。申し込んで……。 あなたの考えには希望がある。暗闇なんかじゃあない……。 記憶の最後にあるのは、彼女のその言葉だった。 キスもまともにさせてくれない、指輪を贈ればワニのおもちゃにされる、そんな彼女。 女性としてはいささかどうかと思わずにはいられない口汚さで、泥だらけでも少しもかまわない、そんな彼女。 けれど自分にとって、唯一の『希望』であり、『光』であった、――そんな、彼女。 ナルシソ・アナスイの記憶は、その瞬間でぷつりと途切れていた。 まるで、予約を間違えて最後まで撮れていないヴィデオ・テープのようだ。 アナスイは頭を抱えながら、もう一度最初から順番に思い返してみた。 ……まったく、どういうことだろう? せっかく除倫がとうとうプロポーズを受けてくれたっていうのに、どうして何も覚えていないんだ。 本当なら、俺と彼女はあのあと豪勢な式を挙げて、ローマ辺りに新婚旅行にでも行っている筈なのに。 「もしかして俺、あの瞬間に死んだ、とかか……?」 もしもそうだとしたら、自分にそこまでの記憶しかないのは理解できる。 頭を捻って、再び脳の奥から思い出せる限りの記憶を引っ張り出した。 懲罰房での出会い、脱獄、再会、そして友人であるF・Fとウェザー・リポートの死。 その辺りまでは、何の問題もなく自身の記憶を正確に引き出せる。 ケープ・カナベラルに向かう道すがらに話した内容や、神父との戦いの様子も、明確に思い描くことができる。 それなのに、やはり何度試みても、あの除倫の言葉に自分がなんと返したのかは憶えていないのだ。 「……やっぱり、そうなのか? 俺は、あそこで神父に殺されちまったのか?」 答えてくれる人間などどこにも居はしないというのに、アナスイはそう虚空に問いかける。 当然、返ってくるのは鼓膜の痛くなるような沈黙ばかりで、彼は苛立ち紛れにチッと舌を鳴らした。 その音が、静寂の中で驚くほど大きく反響する。 大きく溜息を吐いてかぶりを振り、鬱陶しく垂れ下がる前髪をぐしゃぐしゃと掻き毟る。 「だとしたら、だっせぇよなぁ……」 そう嘆息して、己の不甲斐なさにやっていられない気分になる。 何も、する気になれなかった。自分自身に腹が立って仕方なかった。 彼女を、俺を照らしてくれた除倫を全力で護ってあげるつもりだったのに、自分は何も出来なかったのだろうか。 何も成せずに、神父に殺されてしまったのだろうか。 推測が正しいのかは分からない。だが、苛立ちは一向に止まりそうになかった。 怒りのままに、足元の床を何度か蹴った。 「くそっ、くそっ!!」 吐き捨てながら振り上げた片足が、偶然脇に置かれたデイパックを掠り、床の上に中身をぶちまけた。 舌打ちして、散乱した品々をバッグに戻そうと、膝を折って手を伸ばす。 一番近くに落ちていた紙を拾い上げたところで、自分がまだそれを見ていなかったらしいことに気付いた。 二つ折りにされたそれを、興味の薄げな表情で面倒くさそうに開く。 けれど次の瞬間、アナスイはそこに書かれた名前の一つに、嫌でも刮目させられた。 自分のよく知った名前。大切な名前。――――愛しい、名前。 暑いわけでもないのに、首筋の肌がじっとりと汗ばむ。心臓が、細い針金の束で締め付けられた気がした。 「……なっ、」 何かが喉元につかえているかのように、言葉が出てこない。 ごくりと一回つばを飲み込んで、無理やり喉に詰まった重苦しさを取り除いた。 「除、倫……? いるのか、……ここに?」 それでも、口から出たのはそんな単純極まりない言葉だけだった。 胸に手を置き、どくどくとうるさいくらいに鼓動をがなりたてる心臓を鎮める。 「いったい、どうしてだ?」 瞳をすぅっと細くして、祈るように天井を見上げる。 「俺はいい。だが、どうして君が、こんなことに巻き込まれなくちゃあいけない」 床を這うようにだらんと垂れた腕の先が、転がっていた腕時計に触れた。 ブランド物なのだろうか? やたらと、趣味の悪い形をした腕時計だ。 そもそも、時計は既にひとつ支給されているというのに、何の意味があるのだろう。 これで戦えというのか。殺せというのか。誰を? 除倫を? 誰が? 俺が? カチカチカチ……、規則正しく秒数を刻む時計の音が、異常にうるさく感じられる。 「除倫、――どうして、君が」 カチカチカチ……カ。――唐突に、耳障りな時計の音が、ふっと消えた。 何故だろうと奇妙に思って手の中を見れば、支給品のそれが細大漏らさず分解されていた。 丁寧に文字盤から外された螺子や針が、目の前の机の上に無秩序に並べられている。 その様に目を丸くして小さく驚くと、アナスイは髪をかき上げながら長く息を吐いた。 「……まずい、な」 殆ど無意識の内に行っていたその行為に唇を歪めて微かに笑うと、彼は掌中の時計を握り潰した。 ばきばきという嫌な音と共に文字盤が割れ、蜘蛛の巣状に細かなヒビが表面を走った。 もはや原形を留めていないそれを床へ向けて落とすと、そのままブーツの踵でべきんと踏み壊す。 一連の動作を終えると、アナスイは張り詰めていた呼吸を元に戻すかのようにふぅと吐息を漏らした。 分解され、更に粉々に破壊された時計を見つめる彼の双眸に、それまでとは違う暗い色の光が宿っていた。 否、それは『光』ではい。彼の目に宿っているのは、むしろ吸い込まれそうな『闇』だった。 昏い、昏い、希望を感じさせない色をした、渦巻く漆黒の『闇』――。 そのやり方が、彼女を決して喜ばせないであろうことはよくわかっていた。 きっと怒らせる、いや、それ以上に彼女を悲しませることになるだろう。 自分を軽蔑し、「あんたとなんか、もう二度と話したくない」と突っぱねられるかもしれない。 当然、あの時もらった結婚の了承も、無かった事にされるだろう。 ……けれどそれでも構わない。彼女に拒絶されようと嫌悪されようと、自分は平気だ。 ただ、――除倫を二度失うことだけは耐えられない。 「除倫、俺は今度こそ君を護りたい。……何を、してでも」 ナルシソ・アナスイはかつて、殺人鬼だった。 彼は刑務所で空条除倫に出逢い、『光』である彼女に恋をした。 自身の中に眠る『暗闇』を、彼女が照らしてくれると信じて。 ――けれど今、彼は再び闇の中へと戻ろうとしている。 ただ、最愛のフィアンセを護るために。 【ぶどうが丘高校校舎内・1日目・深夜】 [名前]【ナルシソ・アナスイ】 [スタンド名]:ダイバー・ダウン [時間軸]:対プッチ戦終盤、除倫がプロポーズをOKした瞬間 [状態]:健康/自分が、死んで生き返ったのかもしれないと思っている [装備]:なし [道具]:支給品一式 [思考・状況] 1)除倫を護るため、あえて『殺人鬼』になる [補足]支給品は、『吉良の腕時計』でしたが破壊されました。 ぶどうが丘高校校舎内の床に、壊れた腕時計の残骸が落ちています。
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